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代表者プロフィール

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東京都国分寺市で開業している税理士。小さな会社と個人事業に特化した会計事務所を経営しています。 毎日の通勤電車が苦手だったため都下で開業しました。ランニングが趣味なのでときどき野川沿いを走っています。
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こんにちは。松田篤史税理士事務所代表の松田です。

この度は当事務所のウェブサイトを訪問していただきありがとうございます。

この記事では、私がいったいどんな人間で、何を考えて税理士をやっているのか、そのあたりをざっくばらんにお伝えします。

※少々長めの記事となります。お時間があるときにどうぞ。

肩書・資格など

税理士

税理士として東京都国分寺市で開業しています。
税理士登録したのは2013年です(登録番号:123271)。

認定経営革新等支援機関

中小企業庁の認定経営革新等支援機関として登録されています。
認定経営革新等支援機関とは、「中小企業に対して専門性の高い支援を行うための体制を整備するために、税務、金融及び企業財務に関する専門的知識や支援に係る実務経験が一定レベル以上の個人、法人、中小企業支援機関等を、国が経営革新等支援機関として認定するもの」です(長い・・・)。

要するに、中小企業に経営のアドバイスをする事業者として認定されているひとや会社、ぐらいにイメージしてみてください。

私の場合、事業の現状分析を行って事業計画を作成し実行をサポートすることで、業績向上を目指すお手伝いをさせていただいています。

また、最近は融資や補助金の申請に認定経営革新等支援機関の関与を条件とするものが増えていますので、そういったニーズにお応えすることもできます。

freee認定アドバイザー/弥生PAP会員

弊社にはクラウド会計ソフト(freeeやマネーフォワードクラウド)を利用して経理を行っているお客様が多くいらっしゃいます。

ここ数年で大きくクローズアップされているクラウド会計ソフトですが、その原理自体は大企業が使うERPでもっと前から実用化されていたものです。

事業会社に勤めていたときにERPを使っていたので、税理士として独立したときも、クラウド会計ソフトを使わない選択肢は私のなかではありませんでした。

また、領収書などをお預かりして弊社で入力を行うお客様の場合は、パッケージソフト型の弥生会計を使っています。
操作がしやすく実績があるソフトなので、クラウド会計ソフトに抵抗があるお客様やソフトの利用料がもったいない!と考えるお客様についてはこちらを使って決算を組んでいます。

なぜ税理士に?

実は私、大学を卒業するまで「税理士」という資格があることすら知りませんでした。
それなのになぜ資格をとり、遂には独立までしてしまった(!?)のか?
少し長くなりますがこの場をお借りして語ってみたいと思います。

大学卒業間際の出来事

あと少しで社会人なのに・・・

大学を卒業するまでの私はというと、「中学、高校で頑張って勉強して、大学に入ったら青春を謳歌し、その後はそこそこ名のしれた大企業に入れれば人生安泰や・・・」ぐらいの安易な人生設計で生きていました。

親に進められるまま小学校高学年ぐらいから学研マイコーチで勉強を始め、中学・高校時代は親が見つけてきた塾に通い、地元で進学校と言われている高校から東京の大学へ進みました。

大学は都下の自然が残る地域にあり、田舎者だった私には都会すぎずちょうどよい環境でした。

予定どおり4年間の大学生活を送ったあとで、就職活動を始めました。
ところが、私が大学4年生だった1998年〜1999年は就職氷河期真っ只中。
分厚い就職情報誌からエントリーハガキを切り取って多くの企業に応募しましたが、なかなか内定は出ませんでした。

本を読むのが好きだったため、ぼんやりと「新聞記者や編集者になりたいなあ」と思っていましたが、元々狭き門であるうえに不況でますます求人がなく、その夢は早々に諦めて、小売、外食、物流など見境なくエントリーしていました。

それでも夏頃までに3社から内定がでました。

そのあとは卒論を書いて、卒業旅行をして、いよいよ卒業式・・・というときになって、なんだか体調がおかしい。
病院にいくと、「投薬しつつ1年間は安静にして過ごしてください」と診断されました。
国立病院の呼吸器科に2週間入院することになりました・・・。

人生初の入院生活で出会ったひとたち

入院なんて人生で初めての経験です。春から働くはずだったのにそれもパーになって、「これからどうしよう(泣)」と途方にくれました。

今でこそ「第二新卒」からの就職とか、転職を繰り返してキャリアアップしていくことが普通となってきましたが、当時は新卒での就職を逃すとその後の人生で挽回することが難しい状況があったのです。

やることもないので、同じ病室にいる患者さんたちと取りとめのない話をして過ごしました。
6人部屋でしたが、みなさん60歳以上のおじさんたちで、そのうち半分の方は肺癌で入院されている人達でした。

右隣のベッドにいた男性は片方の肺を手術で摘出し、もう片方の肺にもがんができていました。
1週間後に抗がん剤治療が再開される予定で、そうなると副作用でまともに話もできなくなるから、今週アメリカから娘と旦那(アメリカ人)と孫が会いに来るんだ、と言っていました。

「たぶん、次が子どもたちに会う最後の機会になると思ってんだ」
薬の影響で髪の毛が抜けてつるつる頭のその男性は、江戸っ子なまりのべらんめえ口調でそう話してくれました。

私が退院するときには、すでに抗がん剤の副作用がでており、挨拶してもまともに返事ができない状態で苦しそうにベッドに横たわっていらっしゃいました。

斜め右前のベッドの男性は、腕に刺さった点滴とそれがぶら下がるポールを引っ張って毎朝1階のロビーに行き、喫煙コーナーでタバコを吸っていました。
馬鹿だった私は、「呼吸器科に入院しているのにあのひと煙草吸ってますよ!」などと看護師さんに言ってしまい、言われた看護師さんは困った顔をしてただただ無言のままでした。

しばらくするとその男性は自分で歩くことが難しくなり、車椅子を押してもらってタバコを吸いにいくようになりました。

数日後、私が病院の売店に買い物に行って戻ってくると、男性がいたベッドはきれいに片付けられており、男性はいつのまにか病院からいなくなっていました。

隣の病室は女性専用の部屋で、そこには中学生ぐらいの息子さんがいる40代のお母さんが入院していました。

息子さんは毎日自分の母親を見舞いに来ていました。
聞くと母子家庭らしく、いまは自分で食事を作っているとのことでした。
お母さんは抗がん剤の副作用でつらそうでしたが、息子さんが来るとうれしそうに廊下のベンチで話しているのが印象的でした。

患者さんたちが教えてくれたこと

たった2週間の入院でしたが、そこで出会ったひとたちの生き様は、私にとって衝撃的でした。

「ひとはいつか死ぬ」

という誰もが知識として持っていることを、事実としてリアルに強烈に見せつけられました。

みなさん、ご自分の病気でつらいことも多いだろうに、若い私にやさしくしてくれました。
そして、「生きること」の尊さを身をもって教えてくれました。

私はこのとき
「命がある以上、自分がやりたいことをやって全力で生きなあかん!そして、どんなときもできる限りひとにやさしくしなければダメや」
と決意しました。

いまから20年以上前の話です。
すでにこの世から旅立たれた人もいらっしゃるかもしれません。

当時のことをいま思い出しても涙が出てきます。
私にとって人生の転換点となる出来事でした。

簿記と出会い、税理士の存在を知る

簿記の面白さを知る

退院後、次の就職に備えて手に職をつけようと思いました。
手先が不器用だったため、職人系の仕事は向いていない、じゃあどうしようかと思ったときに、バイト先の先輩が日商簿記の勉強をしていたことを思い出しました。

さっそく本屋に行って直感でテキストを選び、1週間で簿記3級、次の1週間で簿記2級の商業簿記、その次の1週間で簿記2級の工業簿記の勉強をしました。

自宅にいるとサボってしまいそうだったので、当時お付き合いしていた女性の部屋を、彼女が昼間仕事で居ないときに借りて、そこで勉強させてもらいました。

3週間勉強して「結構おもしろいし、もっとやってみたいかも」と思うようになりました。
そこで簿記2級の試験を申込み、専門学校の直前対策コースに通うことにしました。

直前対策コースの料金は3万円ぐらいだったと思いますが、そのお金がなく、キャッシングして支払ったのは今となってはいい思い出です。

再びの就職活動

試験の結果、無事簿記2級に受かったので、今後はこの資格を活かして企業の経理部で働きたいと考えるようになりました。
ところが就職活動を再開するも「新卒ではない」という理由だけで応募すらできないところがほとんどでした。

それならばと転職市場で勝負しようとするも、経理職は「経験◯年以上」が応募条件のところが多く、経験がない私はやはり書類選考で落とされました。

「経験◯年って、最初に就職できんかった俺はどないすればええねん!」
と自暴自棄になりかけていたとき、両親が「税理士という資格がある」ということを教えてくれました。

調べると、

・一度に全科目合格しなくてよいので働きながらでもチャレンジしやすい
・科目合格するとそれは一生有効

というあたりが、同じ会計系の資格である公認会計士に比べて私に向いているように思いました。

「最終的に税理士にならんでも、科目合格すればそれをアピールして経理職につけるかも」
そんな風に考え、昼間はバイトで生活費を稼ぎながら、夕方から専門学校で勉強する日々が始まりました。

教わる側から教える側へ

フリーター時代その1(上場企業経理子会社)

バイトしながらの勉強は2年間と決めていました。
この期間で結果がでなければ、全く違う世界で正社員として働く!と決めていました。

世の中は相変わらず不景気でしたし、バイトは職歴にならないため転職で苦労することも知っていました。
2年後ならまだ20代半ばなので、選ばなければ正社員の職はあるだろうと思っていました。

最初にバイトした先は、光通信という上場企業の経理子会社でした。

課長職や部長職には公認会計士や米国CPAの方がついていましたが、末端の経理部員の多くは営業で結果がでなくて経理に回されてきた人達でした。

世の中的には様々な評判がある会社でしたが、経理部のひとたちはみなやさしくて、私が夕方から税理士の勉強をしていることも理解をして応援してくれていました。

公認会計士として企業の経理部で働いているひとも身近にいて、「こんなふうになりたいな」ということを具体的に想像できる職場でした。

フリーター時代その2(大手居酒屋チェーン店)

1年目の試験を受ける前に光通信を退職してしばらく受験に専念したあと、2年目のバイト先を探し始めました。

「すぐ決まるやろ」と安易に考えていたのですが、予想に反してなかなか条件にあう仕事が見つかりません。
家賃の支払いもあったのでいつまでも無職でいるわけにもいかず、2年目のバイト先として選んだのは単に給料が良いという理由でモンテローザという大手居酒屋チェーン店でした。

週5日夕方5時から翌日の3時とか5時まで働き、仮眠をしてから学校に行って勉強していました。
寝不足で、授業中耐えきれず寝てしまうこともしばしば・・・。
当時の先生には失礼なことをしてしまいました。

それまで接客業はほとんどしたことがなかったのですが、やってみると意外とできて、最後はフロアのバイトリーダーをやっていました。
バイト仲間は大学生とかフリーターの同年代が多く、結構楽しく働いていました。

「講師やらない?」

やがて2年目の試験も終わり、結果としてなんとか1科目合格していました。

そこで、引き続き会計業界で頑張っていくことにしたのですが、あるとき専門学校の先生から「講師にならない?」と誘われました。

「講師業なんてやろうと思ってもなかなかできないし、いい経験になるだろうからやってみようか」
と思い、次の年から税理士科の講師として働き始めました。

講師時代

仕事で一番大切なことを受講生さんたちから学んだ

講師は5年間やりました。

当時、講師を3年やると辞めて実務へ転職するひとが多かったのですが、私は3年目の実績がとても悪く、「ここで辞めたら中途半端で何も残らない」と思い結局あと2年続けました。
おかげで4年目以降は合格者もたくさん出すことができました。

講師時代の最大の学びは「こっちが情熱をもって仕事をすれば、相手(受講生さんたち)もそれに応えて結果を出してくれるんだ」ということを身をもって経験できたことです。
こちらがいつもの倍の時間をかけて予習をし、熱く講義をし、自らの経験も包み隠さずお伝えすることで、確実にみなさんの出席率と成績は上がっていきました。

よく、おばちゃんが花に水をやりながら「愛情込めてお世話すると綺麗な花をさかせてくれるんやで〜♪」と言ってますが、人間も同じだなと思いました。

次こそは経理部へいくぞ!

すでに税理士の勉強を始めて8年近くたっていました。
「合格科目も増えたし、実務経験もできたし、いよいよ目標だった経理部へ転職するぞ!」との思いで大手人材紹介会社の門を叩きました。

ところがそこで言われたのは「実務経験がないためご紹介できません」。

専門学校の講師は(たとえ税理士科の講師だったとしても)経理の実務経験とは言えないとのことでした。

冷静になって考えてみれば確かにそのとおりなのですが、「なんでやーっ!?」と当時は思いました。

「税理士事務所なら転職できるとおもいますよ」とのアドバイスをいただいたので、助言にしたがって転職先を税理士業界へ変更して活動した結果、すんなり次の職場が決まりました。

税理士法人時代

私が転職した税理士法人は職員数60名程度の業界では中堅規模の事務所でした。

所長先生は業界では名の知れた重鎮の方で、そのネームバリューのおかげで大手企業との取引もあり、街の会計事務所では経験できないような仕事もさせてもらいました。

ここでは、税理士事務所のオーソドックスな業務を叩き込まれました。
日常の顧問先訪問から記帳代行、決算対策や申告書の作成はもちろんのこと、税務調査の立会いや、相続税・贈与税といった資産税分野の業務も行いました。

税理士事務所の職員は日常的にお客様である経営者と会っているので、そういう人達に連れられて、いままでの会ったことのないような人達にお会いしたり、行ったことのないような場所に連れて行ってもらったこともありました。

事務所として出版社から定期的に執筆を依頼されていたので、原稿作成のサポートもしていました。
このときは講師時代に教材作成をしていた経験が役立ちました。

この事務所はお客様の担当者として「なんでも自分でやりなはれ」という方針だったため、お客様の要望があれば「それは専門外だからわかりません」などと言わず、一から調べて対応していました。

「効率悪いな〜・・・」と思う時もありましたが、独立してしまえばなんでも自分でやるしかいないので、いまとなってはその時の経験が役にたっています。
人生、どこで何が役に立つかわからないものですね。

そしてついに経理部へ・・・

税理士法人時代の仕事は楽しかったのですが、労働時間が長く体力的になかなか厳しいものがありました。

事務所から家が遠かったため、終電まで仕事をして午前1時すぎに自宅に帰り、翌朝は4時台には起きて朝風呂で気合をいれたあと出勤する、という毎日。
まだ資格をもっていなかったため給料も安く、生活もきつかったです。

「まてよ、俺はなんで税理士受験してたんだっけ?一般企業の経理部へ行きたかったからじゃなかったのか?」

ある時、忘れかけていた初心を思い出しました。

自分の結婚式で挨拶もしてもらってお世話になった先生の事務所でしたが、再度転職を決意。

税理士事務所の経験は厳密には経理部の実務経験とは言えず、やはり最初は難航しましたが、逆にそこを評価してくれる企業もあって、無事に一般企業の経理部門へ転職することができました。

一般企業への転職を目標に税理士試験を受け始めてから11年の歳月が流れていました。

夢がかなって事業会社で企業内税理士として働く

転職先の一般企業は、上場しているメーカーの経理子会社でした。

転職後に税理士登録もしたので、いわゆる企業内税理士として働いていました。

具体的にどんな仕事をしていたのかについては、こちらにまとめてありますのでよかったら読んでみてください。

念願かなってついに経理部門で働き始めました。

上場企業のコンプライアンスに則った経理を行い(ここで始めて税理士試験の財務諸表論の知識が役にたちました)、海外取引の税務に携わり、ERPを使って大企業がどうやって業績を管理しているのかを知ることができました。

収入も増えて、少し広い家に引っ越しました。
やがて子供が生まれました。

職場の駅伝大会に誘われたことをきっかけに、ランニングに目覚め、フルマラソンやウルトラマラソンを走るようになりました。

そうこうしているうちに一年ずつ年をとり気がつけば40歳になっていました。

独立を決意する

一般企業に入るまで知らなかったのですが、大手企業の場合、モデルとなるキャリアパスがあらかじめ用意されていることが多いです。
私がいた会社も、「この学歴でこの職位で年齢だと、こんな仕事をさせる」というものがありました。

本人の意向とか能力よりも、そういったキャリアパスを優先させることが往々にしてあることを知りました。
それによれば、私はこの先だんだん現場から離れいわゆる中間管理職としてマネージメントの仕事を求められることになるようでした。

ある時、私は朝起きて鏡で自分の顔をみながらスティーブ・ジョブズの真似をして自分自身に問いかけてみました。
「俺はこのあと定年まで20年間、この仕事をしたいのか?」
















出てきた答えは「No」でした。

私は
「現場でお客様とつながって、仕事をしているとき」
「専門性を磨きそれをお客様に提供して喜んでもらったとき」
に仕事上の満足を感じている自分に気が付きました。

今の職場は居心地もよく大きな不満はありませんでしたが、一方で毎朝通勤電車に揺られて職場にたどり着き、部下が作る書類にハンコを押したり、社内の人間関係のバランスをとったり、現場を見に来ない役員が言う無理難題に対応したりしながら、その会社でしか通用しない能力をもつ人間にはなりたくないと思いました。

「税理士としての専門能力を日々高め、それをサービスとして提供することでお客様に喜んでもらいたい」
それが私のやりたいことだということに気が付きました。

私は、20年以上前に自分が決意したことを思い出していました。
「命がある以上、自分がやりたいことをやって全力で生きなあかん!

そして、どんなときもできる限りひとにやさしくしなければダメや」

病室で自らの病気と闘いながら、若い私に親切にしてくれたひとたちが記憶の中から語りかけてきました。
「ひとはいつか死ぬんやで」

私は会社を辞めて税理士として独立することを決心しました。

お客様への約束

私は、税理士のサービスをもっと多くのひとたちに利用してほしいと考えています。
そのため手頃な値段でお客様に貢献できるようなサービスメニューを用意しました。

お客様の経理や税金の悩みを解決し、さらには未来に向けて前向きな決断ができるよう、数値に基づいた現状把握と今後のシミュレーションを通してサポートをさせていただきます。

私の喜び

「松田さんにお願いしてよかった!助かりました!」と言ってもらえた瞬間は、私が仕事をしていて最も喜びを感じられる瞬間です。

ひとりでも多くのお客様にそう言ってもらえるように、ひとつひとつのご縁を大切に丁寧な仕事をしていきたいと思っています。

経歴とか趣味とかの情報

こちらのページにもう少し個人的な情報をまとめておきました。
お時間があるときにでもご覧ください。

最後までお読みいただきありがとうございました。

事務所概要

名称:松田篤史税理士事務所
代表者:松田篤史
住所:〒185-0021 東京都国分寺市南町3-11-18 サンスクエア3階
アクセス:中央線・西武線「国分寺」徒歩4分
営業時間:8:30ー18:00
定休日:土日祝日
お問合せ先:下記のお問い合わせフォームからご連絡をお願い致します。

●経理、決算、税金のことでお困りの個人のお客様や小さな会社の経営者の皆様へ

松田篤史税理士事務所は、小さな会社と個人のお客様専門の会計事務所です。
良いサービスを良心的な価格で提供しています。

 

◎顧問契約プラン
代表税理士の松田が、顧問税理士として経理や税金にとどまらず経営に関するあらゆることのサポートを行います。
税理士との定期的な打合せを通して、税務に関する幅広い対応を行うことを希望されるお客様はこちらをご検討ください。
打合せはZoomなどを用いたオンライン方式にも対応しています。
税理士本人がやさしく丁寧に対応致します。

 

◎個別相談プラン
税金のことについて税理士に手軽に相談できるプランです。
「突然税務署から連絡がきた!どうすればいい?」
「ビジネスを始めようと思っており税金のことについて知りたい」
「いままで無申告だったけどこれからは申告したい」
etc・・・
税金や税務署のことについて知りたいこと、聞いてほしいことがあるが身近に相談できる税理士がいない・・・そのような方向けのプランです。
税理士がやさしく丁寧に相談に乗ります。
税理士に相談したいが顧問契約するほどの規模ではないお客様や、税理士と会うのは初めて・・・というお客様が利用されることが多いプランです。

 

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